読売テレビ「情報ライブ ミヤネ屋」村上高明チーフプロデューサー 自分たちで設けてしまっていた壁を越えよう。(G-press)

フリーアナウンサーの宮根誠司さんが司会を務める午後の生放送情報番組「情報ライブ ミヤネ屋」(読売テレビ・日本テレビ系、月~金曜午後1時55分)。元朝日放送の宮根さんの冠番組として、2006年に関西ローカルで放送がスタートし、08年からは関東に進出。現在では全国ネットの昼のワイドショーとして唯一の番組となった。タレントの矢口真里さんの1年5カ月ぶりの復帰の舞台となったことも記憶に新しい。テーマに大胆に切り込む生放送番組について、また宮根さんの知られざる素顔について、読売テレビの村上高明チーフプロデューサーに番組作りの姿勢を聞いた。

最初に、村上さんがテレビ局を志望した理由は?

 ファイトが湧いたというのが、一番のきっかけなんですよ。学生時代にテニスをやっていてプロを目指してたんですが、ある程度、上に行くと、それ以上は行けないと分かった。それでどうしようと。テニスしか頑張れていなかったので、こりゃまずいなと思って。当時(1991年入社)は一芸入社といいますか、体育会の出身だと聞こえのいい会社から内定が出ていた時代で、調子に乗ってたんだと思います。もっと自分を選び抜いてくれるような、苦労して勝ち取るような企業はないかなと思って。それで勉強すると、どうもテレビ局というのは簡単には内定をくれないらしいというのが分かって燃え上がって受けました。

入社後は報道を担当していたんですね。

 体が丈夫と思われたのか、報道局配属と同時にサツまわり。大阪府警の司法担当の日々でした。ものすごく忙しかったんですけど、元気だし、独身だし、朝駆け夜回りも面白くなってきて、これが記者か!と思いながらやってましたね。

 

そして1995年に阪神大震災が発生しました。

 記者として会社に泊まっているときに地震が起きて。仮眠を取り始めたときに揺れてベッドから落ちて、ちょっと様子がおかしいと思ってフロアに行くともう照明が落ちていて・・・。
 友人の親が亡くなったりして身近に被災を感じました。たまたま自分の家族は大丈夫だったんですが、まだ社会人5年目だったのでいっそう深く、いろいろなことを感じましたね。

震災を経たあとは?

 報道で番組をやってから本社で営業を。東京に転勤して、営業をやったり、編成をやったりしながらも、現場でものづくりが好きだったので、何か新しいことをしたいなと思って、
営業の経験から、コマーシャルを見てもらわないことには成り立たないなと感じていたので、CMをもっと見ていただくために番組が協力できることはないのかなということを毎日考えていました。仲の良い広告会社の人間と会話している中で、基本的にはあいえないんですが、車とお酒のスポンサーと一緒にドラマ本編とCMを行ったり来たりしよう!ってことに、幸運にもトヨタさんとサントリーさんの宣伝部の方々に乗って頂き、じゃあトライいようと……。

どんなドラマを?

 「恋愛温度を1℃上げよう」というコンセプトで、石田衣良さんと一緒に「37℃」というスペシャルドラマを(2006年放送)。当時はなんとなく日本が元気ないイメージだったので、社会派ではなくドラマでなんか元気づけたいなと思ってて。結果として東京では流してもらえなかったんですが、関西と熊本で放送されました。それをカンヌ国際広告祭に出品して、書類や予選は通って。恥ずかしい話、これは(賞を)とるなと(笑い)。(受賞のあいさつのため)フランス語を練習したんですが、何もとれずに、これ全然あかんよ!って

 

その後は?

 東京に6年いたんですが、10年の異動を前に「本社に帰って今、現場に戻らないとやばいです。俺、本当は番組作りたい」と上司へ伝えたら、「ミヤネ屋」に来られた。尽力して頂いた上司へは今でも大感謝です。「ミヤネ屋」は東京営業時代に立ち上がった番組なのですごく親近感がありました。最初はまあトラブル続きで、ひどいもんでしたけどね(笑い)。

 

現場の制作に戻ってみてどうでした?

 基本的にうれしかったですね。あと東京にいたので、このネタは日本テレビは嫌がるだろうなとか少し前まで自分がいた側で想像できるので、いらないトラブルは減ったような気がしますね。それが今の大阪テイストの出し方につながっていると思います。たとえば政治ネタでも、基本的にNNN(日本テレビ系列)としてそろえなきゃいけないんだけど、最終的にジャッジは番組がする。日本テレビの政治部は政局をうらなう部分で、ここまでの発言はできないよねというところも「ミヤネ屋」はちょっと(それ以上)つっこんじゃうこともある。でもそこは政治部とも共有できていると思っています。

司会の宮根さんの魅力とは?

 まっとうに生きてはるところですね。ものごとに真摯(しんし)に向き合うところがブレない。それがニュースだろうとなんだろうと全ての事象を真面目にとらえているから、僕も安心するんですよ。宮根さんだからこそ今の「ミヤネ屋」ができていると思うし、宮根さんも「今の体制を作ってくれているから自由にできる」と思ってくれているかもしれない。信用し合っていると思います。こっちがこうしたいというのが伝わったら、100%その通りにしてくれます。「俺はこれはやりたくない」という発言は1回もないですね。やりたいものは本当に軟らかいネタくらいで、「メジャーリーグで投げたいねん」とか(笑い)。

ネタの選定で大事にしていることは?

 ライブ感が一番ですね。その日の午後1時55分からテレビの前に座ってもらえる方が何をみてうれしく、気持ちよくなってもらえるのかだけを考えます。ジャンルも何から入るかは分からなくて、モニタリングしてもむちゃくちゃですから。黄金比は、僕ら自身も分かってないです。

放送中の11年3月11日に東日本大震災が起こりました。この経験は大きかった?

 大きかったですね。「ミヤネ屋」の放送中に揺れましたから。絶句ですよね、これはもう見たことない光景だと。どうするのか日本テレビの編成と話をして、「ミヤネ屋」でやってくれという話になって。阪神淡路の経験からすると、発生当時はドメスティックな、ミクロな情報を出さなくてはいけない。とかく全国ネットでは大きな視点に立ちがちなので、ざっくりと宮城ではこうとか広い目線で情報を出すのは絶対やめようねとは言ってましたね。今、この避難所にいますとか、ライフラインは何県何市、さらには何町とか細かい情報を出すことを心掛けようと。

これまでで印象深い放送回は?

 昨年の8月15日の終戦の日に鹿児島の知覧から放送しました。やっていいはずなのにやれていない何かという形で、「ミヤネ屋」の時間帯に終戦という日を笑いなしで放送した。それが自らの幅を広げにいったという感じがありました。真正面からやるという。あえて数字(視聴率)を取りにいくとかはなしにしようと。

その経験は生かされた?

 生きてますね。以前だったら「こんなの無理じゃないか?」というネタがディレクターたちから出始めた。それはうれしいことなんですよね。やらないジャンルはないと掲げていたにもかかわらず、自分たちで設けてしまっていた壁を越えにいっている感じで、進んでいることを体感している。まだ多分見えないハードルを設けてしまっているので、何かのきっかけで気づいたときに越えようとしていかないと。地球規模で想定しないことが起きてるのでそこに沿っていくしかない。海外への取材もなるべく出すようにしているので、そういった(冒険的な)ことをやり続けたい。

テレビ業界を志望する人に対してメッセージを。

 誰でも大丈夫なんです。しいて言うなら「まっとうに自分の人生を生きてるかな」ということ。シンプルにそれくらい。僕は面接官もやるけれど、それくらいしか見てない。ちょっとしたキャラクターの失礼さとかは受け入れられる人が多いんですけど、一緒に働くので、いい加減なやつは嫌ですもんね。

プロフィル

 むらかみ・こうめい 1968年生まれ、大阪府出身。読売テレビ「情報ライブ ミヤネ屋」チーフプロデューサー。91年に読売テレビに入社。報道局に配属され、報道記者、ディレクター時代に95年の阪神淡路大震災を経験。大阪本社の営業局、編成局を経て、東京支社時代の2006年にはCMとドラマを融合させた企画を立ち上げ、カンヌ国際広告祭に出品。10年から「情報ライブ ミヤネ屋」を担当し、11年の東日本大震災を放送中に経験する。

インタラクティブ・プログラム・ガイド(IPG)のG-pressより
※この記事は下記メディアに掲載されました。
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